pure soul true love 純粋意識⭐︎沈黙の書

真我の視点から、人生をより自由に、より愛に満ちたものへと変えていくためのヒントをお伝えしています

アシュターヴァクラギータ 第4章〜第6章の教え

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真我を知る ― 第4章〜第6章の教え

インド哲学の深遠な叡智を伝える
アシュターヴァクラギーターには

『真我(純粋意識)を知る(氣づく)こと』
これこそが人間の究極の目的である
というメッセージが繰り返し語られています。

 

ここでは

第4章「真の探求者」
第5章「溶け去る」
第6章「知識」

の教えを比喩の意味も含めてひとつずつ丁寧に
解説していきます。

 

第4章 真の探求者

 

1.智慧ある人は真我を知って
人生というゲームを楽しむ。
だが、愚か者は、重荷を背負うロバのように
この世を生きる。

《意味・解説》
「人生はゲームのようなもの」
これは、人生を深刻にとらえすぎず
軽やかに遊びのように楽しめる境地です。

真我(純粋意識)を知ることで
人生の浮き沈みもただの経験と受け止め
執着や恐れから解放されます。

一方、無知な人は
責任・義務・欲望・不安を背負い込み
まるで重荷を運ぶロバのように苦しみ続けます。

 

2.真の探求者は、インドラや神々にさえ
手の届かない崇高な境地にあっても
得意がることはない。

《意味・解説》
ここで言う「インドラ」は神々の王。
つまり人間を超えるような存在です。
真の探求者は、神々も及ばない崇高な
境地に達しても、それを誇ったり
自慢することはありません。
なぜなら、彼にとって
「誰かより上」「優れている」
といった比較は
意味を持たないからです。

真我を知る人は、ただ自然体で
静かな謙虚さを身にまといます。

 

3. 彼はものごとの本性を知っている。
彼のハートは正邪の区別に汚されない。
空が煙に汚されることのないように。

《意味・解説》
真の探求者は「善か悪か」「正しいか間違いか
といった二元的な価値観に染まりません。
たとえば
空に煙が流れても、空そのものは何も影響を
受けないのと同じです。

彼の心は清らかで広大。
だから他者の行為や社会の評価に
乱されることはなく、物事をあるがままに
見ることができます。

 

4. 彼のハートは純粋。
彼は全世界がただ真我であることを知っている
だから、彼が望みどおりにすることを
誰が止められよう?

《意味・解説》
真の探求者は「すべては真我のあらわれ」
であると知っています。

だから彼の行為は、エゴからではなく
自然な流れとして生じます。

そんな人の生き方を、外からとやかく
止めることはできません。
彼は「宇宙の意志と調和した存在」
そのものだからです。

 

5. ブラフマー神が草の葉にいたる
四種類の生きものの中でも、ただ賢者だけが
欲望と嫌悪を棄て去る力をもっている。

《意味・解説》
インド思想では、生きものは
「胎生・卵生・湿生・種子生」の四種に
分けられるとされます。

そのあらゆる生きものの中で
「欲望と嫌悪」を手放すことができるのは
真の賢者だけ。

これはとても強いメッセージです。

欲望や嫌悪こそが、輪廻と苦しみを
生み続ける根源だからです。

覚者はそれを超えるからこそ
自由でいられるのです。

 

6.なんと彼は稀有な存在だろう。
自分が真我であることを知り
ものごとが起こるに任せて行為する。
そして決して恐れを知らない。
彼は自分がニのない、一なるもの
全創造物の主である真我だと知っているのだ。

《意味・解説》
ここでは、真の探求者の希少性と偉大さが
讃えられています。
彼は「すべての根源が自分(真我)である」と知っている。

だから、未来を恐れることもなく
自然な流れに従って行動できるのです。

「ニのない一なるもの」とは、分離も対立も
存在しない純粋な意識そのもの。

真の探求者は、もはや」と「世界」を
分ける境界を超えた
存在なのです。

 

まとめ

 

「人生はゲーム」
→ 真我を知る者は人生を遊びとして
軽やかに生きる。

「神々を超えても驕らない」
→ 崇高な境地に至っても謙虚さを失わない。

「空と煙」
→ 善悪や二元の価値観に心は染まらない。

「全世界=真我」
→ すべては真我であるため
自然に自由に行為できる。

「欲望と嫌悪を超える」
→ それを捨てきれるのは賢者だけ。

「二のない一なるもの」
→ すべてと一体であるため
恐れから完全に自由。

この章が一貫して示すのは
「真の探求者とは、欲望や恐れを超え
すべてが真我であることを知り
自由にして謙虚に生きる存在である」

という智慧です。

 

第5章 溶け去る

 

1. あなたは何ものにも汚されることの
ないほど純粋だ。
いったい何を放棄するというのか?
身も心もすべて明け渡して
あなた自身を溶かし去りなさい。

《意味・解説》
ここでは
「あなたは最初から純粋で汚れなき存在だ」と
語られています。
つまり、何かを新しく「放棄する」必要など
本当はないのです。

ただ、自我(エゴ)が作り出した
「私は不完全だ」という錯覚をまるごと手放すこと
そのとき、あなたは真我(純粋意識)へと
溶け込むことができます。

 

2. 海の泡のように全世界はあなたの内に
巻き起こる。あなたは真我あなたはひとつだ。
あなた自身を溶かし去りなさい。

《意味・解説》
「海と泡」の比喩です。
泡は一見、独立した存在のように見えるけれど
実際には海の表れにすぎません。

同じように、この世界のあらゆる現象は
あなたという大海の中に生じる泡のようなもの。

あなたは「海そのもの」であり
「一つの真我」なのです。
だからこそ
「小さな泡=個別の自我」にしがみつかず
広大な海に自己を溶かし去りなさい
と説かれています

 

3. あなたは世界を見る。
だが、ロープを蛇と見間違えるよう
本当は世界は存在しないのだ。あなたは純粋だ。
あなた自身を溶かし去りなさい。

《意味・解説》
ここでの比喩は「ロープと蛇」。
暗闇でロープを蛇と勘違いして恐れるように
私たちは「世界が実在している」と
錯覚しています。

しかし、真理の視点から見れば
世界は幻想にすぎません。
あなたは世界に汚されず、すでに純粋そのもの。
幻想にとらわれず、真我そのものへと
自己を溶かしていくべきだと説いています。

 

4. 喜びや悲しみ 希望や絶望
生や死を通り抜けようと
あなたは変わることのない一なるもの。
あなたはすでに満たされているのだ。
あなた自身を溶かしさりなさい。

《意味・解説》
私たちは、人生の中で
喜びや悲しみ、希望や絶望、生と死といった
二元的な体験を繰り返します。

けれども、それらはすべて
「通り過ぎていく現象」にすぎません。
その背後にあるあなたは、変わらない
「一なるもの=真我」
あなたはすでに欠けることなく
満ち足りている存在です
変化に巻き込まれず揺るぎない本質へと
自己を溶かし去りなさい
と語られているのです。

 

まとめ

「海と泡」
→ 現象は大海(真我)の表れにすぎない。

「ロープと蛇」
→ 世界は幻想にすぎない。

「喜びと悲しみ」「生と死」
→ 真我はそのすべてを超えた存在。

この章のメッセージは一貫して
あなたはすでに純粋で満ち足りている。
その幻想の自我を溶かし去りなさい
ということです。

 

第6章 知識

 

1. 私は果てしない空間
世界は土でできた壺
これが真理だ
何を受け入れることもない
何を拒むこともない
何を消し去ることもない

《意味・解説》

ここでの比喩は「空と壺」
壺の中の空間は、外の大空と本質的に同じ。
壺が壊れても空間はなくならないように

個人の肉体があってもなくても
真我は変わらないのです。
つまり、あなたは
「壺(身体や個別の存在)」に限定された
ものではなく、果てしない空そのもの。
だからこそ
何かを受け入れる必要も
拒む必要も、消す必要もない

ただ存在しているのが真理です。

 

2. 私は海
全世界は波
これが真理だ
何にしがみつくこともなく
何を明け渡すこともない
何を消し去ることもない

《意味・解説》
ここでは「海と波」の比喩
波は一見、個別の存在のように見えますが
実際には海の動きそのもの。
同じように、世界のすべては「真我(海)」の
あらわれにすぎません。
だからこそ、波にしがみついたり
逆に捨てたりする必要はありません。
すべては自然に生じ、自然に消えていくのです。

 

3. 私は真珠貝
世界は銀の縞模様
すべては幻!これが真理だ
何もつかむものはなく
何を拒むこともない
何を消し去ることもない

《意味・解説》
この比喩はインドの伝統的な
たとえ話に基づきます。
月明かりの下で、真珠貝の中に銀の筋が
見えると、人は「銀がある」と錯覚します。
しかし実際には銀など存在しない。
同じように、世界も
「実在しているように見える」けれど
それは錯覚にすぎません。
だから、掴むものも、拒むものも
消すものも、本当は何もないのです。

 

4. 私は生きとし生けるものの中に存在し
生きとし生けるものは私の中に存在する
これこそが真理だ
何を受け容れることもなければ
何を手放すこともない
何を消し去ることもない

《意味・解説》
ここでは
「相互存在」の真理が語られています。
すべての生きとし生けるものは
真我の中にあり、同時に真我は
すべての生き物の中にある。
これは「分離がない」ということを意味します。
宇宙も生命も私たちも
すべては同じ一つの真我のあらわれ。

だから、何かを得たり失ったりする必要はなく
すべてはもともと一つに溶け合っているのです。

 

まとめ

 

「空と壺」
→ 真我は壺の中に閉じ込められる空間ではなく
果てしない大空そのもの。

「海と波」
→ 世界の現象はすべて真我のあらわれ。

真珠貝と銀」
→ 世界は錯覚にすぎない。

「相互存在」
→ 生きとし生けるものと真我は分離がない。

この章は一貫して

「真我は無限で、世界はそのあらわれに
すぎない。だから、得る・捨てる・消す
といった行為は不要だ」

という智慧を示しています。

受け入れることも
手放すこともない
 

多くのスピリチュアルや心理学の教えでは
「すべてを受け入れましょう」
「執着を手放しましょう」と説かれます。

これはとても大切な実践で
心を整え、苦しみを和らげてくれます。

いわば

相対的な真理(心のレベルでの智慧です

しかし、この第6章が語るのは
さらに奥の視点

絶対的な真理真我のレベルの智慧です。

なぜなら

受け入れるというのは
「受け入れる対象がある」と信じている前提。
手放すというのは
「掴んでいるものがある」と信じている前提。

つまり

対極がある=分離です

でも、本当のところはどうでしょう?

空は雲を「受け入れている」わけでも
波は海から「手放される」わけでもありません。
それらはただ自然に現れては消えるだけ。

同じように、世界も心も、すべてはただ
真我のあらわれであり
掴むものも、拒むものも、消すべきものも
そもそも実在しない のです。

ですから第6章では、こう語られるのです。

何を受け容れることもない。
何を手放すこともない。
何を消し去ることもない。

 

🪷Pure Soul からのメッセージ🪷

探求の道を歩むあなたへ。
第4章は「真の探求者の姿」を示しました。

欲望や恐れを超えて、すべてが真我であると
知るとき、人生はただの遊びとなり
あなたは自由にして謙虚な存在となります。

第5章は「自己を溶かすこと」を説きました。
あなたはすでに純粋で、満ち足りている存在

幻想の自我を溶かし去れば、海に泡が還るように
すべてがあなたの内に溶け込むでしょう。

第6章は「真我そのものの智慧」を示しました。
空と壺、海と波、真珠貝と銀
これらはすべて

世界がただ真我のあらわれに
すぎないことを告げています。

だから、受け入れる必要も、手放す必要も
消す必要もない。

あなたは最初から完全なのです。

Pure Soul からのメッセージはただひとつ

あなたは探求者でありながら
すでに求めるものそのもの。

何も足す必要はなく、何も捨てる必要もない。

自分が『すでに一なる存在』だと思い出して

あなたの魂は、はじめから自由で、純粋で
恐れを知らない。

その真理に気づくことこそが
探求の終わりであり、同時に永遠の
始まりなのです。

 

アシュターヴァクラギーター 第 四五六章 
朗読を YouTubeに投稿しています

無になって、瞑想するように
聴いていただけたら嬉しいです♡

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六根清浄大祓を真我『在る視点』から読み解く

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真我を思い出す祈り

六根清浄は、天照大神の宣言から始まる
古神道の祓詞です。

この祝詞は、単に
『不浄を祓う』ためのものではありません。

もっと深い次元で
私たちが本来もっている
清らかさと神性を思い出すための祈り
なのです。

 

六根清浄大祓の現代語訳

 

人は本来
神の御霊(宇宙と同じ本質)
である
六根(目・耳・鼻・口・身・心)
を清め静めよ

穢れを見ても
心まで汚さないことが大切


六根が清まれば、五臓も静まり
天地と同根・万物と同体となる

この境地では
祈りは自然に成就する

 

人間は本来、天と地と同じ神聖な魂を
持っています。

心を静かにし、清らかさを保つことが
本来の神性を生きる道です。

目や耳や鼻や口、体や心を通して
さまざまな不浄や雑音が入ってきても

それに染まらず、心の奥の静けさを
保ちなさい

そうして

六つの感覚が清まると
体も安らぎ、天と地の神々と同じ根から
生まれていることを思い出します。

そのとき、すべての存在とひとつである
本当の自分に目覚めます。

この気づきの中では

祈りは自我の願いではなく
天の意として自
然に叶えられるのです。

 

在る視点
真我の視点からの読み解き

 

この祝詞を真我(純粋意識)の視点から
見ると言葉の奥にあるメッセージが
見えてきます。

『六根を清める』
→ 感覚を通じて
世界にとらわれる心を
解放すること。

『不浄を見るが心は汚れない
現れをそのままに見て
巻き込まれない意識。

『天地と同根、万物と同体』
→ そもそも分離がなく、すべてが
一つの意識の現れであるという気づき。

『祈りが自然に成就する』
→ 願いと叶うことの区別すらない静けさ。

つまり、この祝詞は『心を清めなさい』
という道徳的な教えではなく

『すでに清らかな本来のあなたを
思い出しなさい』という
呼びかけなのです。

 

 我が魂を
傷ましむることなかれ

 

祝詞の中でも特に深い一節が
『我が魂を傷ましむることなかれ』です。

これは単に『自分を傷つけるな』という
意味ではありません。

 

真我の視点からの意味

魂そのものは
常に完全で傷つかない存在です。

傷ついたと感じるのは『私』という
心の物語であり、真我ではありません。

だから『魂を傷つけるな』とは
心の波を魂に重ねるなという
呼びかけなのです。

つまり

外の出来事や他人の言葉が
魂を傷つけるのではなく

それを『汚れ』と解釈する自分の心が
魂を曇らせているのです。

 

聖者たちの言葉と
共鳴するメッセージ

 

ラマナ・マハルシ

《英語原文》
The Self is ever pure and untouched;
it is the mind that imagines impurity or suffering.

《日本語意訳》
真我は常に純粋で完全である。
穢れや苦しみは、心がつくり出した
幻想にすぎない。

《解説》
六根清浄大祓が説く『心に穢れを移さない』
という教えと響き合う言葉。
外界の現象は魂を汚さず、本質の清らかさは
変わらないと示している。

 

ニサルガダッタ・マハラジ

《英語原文》
Before the mind names it, nothing is impure.
Awareness itself is untouched by what arises.

《日本語意訳》
心が名づける前には、何も不浄ではない。
現れるものに、意識そのものは触れない。

《解説》
『不浄を見るが心は汚れない』という
祓詞の一節に重なる。
汚れや清らかさというラベルを超えた
純粋な在り方を指し示す。

 

《英語原文》
When the mind is silent, the division between
the observer and the observed ends.
In that silence, all is one.

《日本語意訳》
心が静まるとき、観る者と観られるものの
分離が消える。
その静けさにおいて
すべてはひとつである。

《解説》
観察者と観察対象の二元性が
消える瞬間を語る言葉。
六根清浄大祓の「天地と同根、万物と同体」
と同じ境地を示している。

 

ラメッシ・バルセカール

《英語原文》
When it is seen that there is no doer, peace arises.Nothing is stained, nothing is ever lost.

《日本語意訳》
行為者がいないとわかるとき
平安が訪れる。汚れず、何も失われない。

《解説》
『魂を傷つけるな』という祓詞の核心と
響き合う言葉。
すべてが自然に起きているだけであり
真の自己は変わらず清らかだと示している。

 

日常生活での実践

 

ネガティブなニュースや人の言葉を耳にしても
心まで汚さないと意識する。
自分を責めそうになったとき
魂はもともと清らかだと想い出す。
瞑想や祓詞の唱和で、感覚の奥にある
静けさを味わう。

『清める』というより
もともと清らかだと気づくことが
真の祓いだと理解する。

 

この祈りの真髄

私たちはもともと清らかで
天地と一体である
清めるのではなくそれを思い出す祈り。

 

結び


六根清浄大祓は、古代の祓詞でありながら
現代の私たちにとって
深い癒しと目覚めの力を持っています。

不浄を避けるのではなく
不浄の中でも心は汚れないという真実を
思い出すとき、私たちは自然に
平安と静けさに包まれます。

その静けさの中で、祈りは努力によらず
自然と叶えられていくのです。

 

⭐️Pure soul からのメッセージ⭐️

あなたの本質は、最初から清らかで
何ひとつ欠けていません。

清めるというより
清らかであったことを
思い出す

それが、この祓詞の本当の力です。

目や耳や心が、日々の出来事に揺れても
その奥には、静かでやさしい光が
ずっと変わらずにあります。

その光に触れたとき
あなたは天地とひとつであり
万物と同じ根を持つ存在だと
気づくでしょう。

そこには、祈る者も、祈りの対象もなく
ただ一つの意識があるだけです。

この祓詞を唱えるとき
どうか「清めよう」と力むのではなく

すでに清らかな真我に帰る道として
響かせてみてください。

あなたの内なる静けさが
世界そのものの静けさとひとつに
なるでしょう


最後まで読んでくださり
ありがとうございます♡

こちらの六根清浄大祓
一緒に聴いてみてね♡

 

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すべてはただ起きているけど何も起きていない

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すべてはただ起きている
でも、何も起きていない

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ラメッシ・バルセカールの言葉には
一見すると矛盾していて

しかし

深く腑に落ちるパラドックス
よく現れています。

その中でも私にとって
特に象徴的なのがこの言葉です

「すべてはただ起きている
しかし、何も起きていない。」

 

いったいこれは
どういう意味なのでしょうか?

1. 現象は動いているように見える

目の前では、日々の出来事が
絶え間なく展開されています。

出会いがあり、別れがあり
喜びがあり、悲しみがあります

肉体は年を取り、社会では変化が起こり
環境も刻々と変わってゆきます。

「すべてはただ起きている」という言葉は
このような現象世界を否定するのではなく
むしろそこに『誰も起こしていない』という
事実を指し示しています。

すべては、因果の流れ
宇宙的な必然として起きている。

川の流れが、ただ流れているように。
風が、ただ吹いているように。

 

2.「私」が何かをしているという錯覚

私たちは
「自分がこれをやった」
「あの人がこうした」

と考えます。

そしてその判断や記憶に執着し
罪悪感や怒り、誇りや後悔を抱き続けます。

「私という個人は、ただの受信機であり
すべては源から起きている」

この視点に立つと

私は何もしていない」
「誰も何もしていない」
という静けさが現れます。

ただ出来事が起きているように
見えるだけなのです。

 

3.何も起きていない”とは?

ここに、より深い非二元の教えが現れます。

私たちが「何かが起きた」と認識するのは
思考や感覚の中の出来事です。

しかし真我の視点、つまり
「ただ在る」純粋意識の視点から観れば

現象はすべて、夢や映画のようなもの
起きているようで、実体はない。

雲が空に浮かんでは消えていくように
出来事もただ現れては消えていくだけ。

“在るもの”は、それを
ただ観ている沈黙の意識。


これは概念で理解するだけでは
届かないのですよね...

たとえば、鳥の声を聞いたとき
風の感触にふれたとき

そこに「それを聞いている私」が
変わらず在るなぁ...

という深い静けさに気づく瞬間があります

そして、さらに深く問いかけてみます

『この聞いている”私”とは、誰なのか?』

 

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探求が深まると
その「聞いている私」ですら
現れては消えるものだと気づきます。

ただ気づきそのものが
変わらず在り続けているのです。

 

4. 夢から目覚めるように

たとえば、夜に見た夢の中で
誰かと喧嘩をしたとしても
朝起きれば「ああ、夢だった」と知ります。

でもその夢の中では
確かに怒りを感じていたのです。

同じように、私たちの人生の中で起きる
「出来事」や「ドラマ」も
真我の目覚めの中では
ただの映像のように過ぎていくもの。

目覚めとは、「何も起きていない」
ことに気づくこと。

そして、全てはひとつだったと。

つまり

「私は常に、ただ在る」という
純粋意識として目覚めること。

 

5. この視点で生きるとは?

「すべてはただ起きている
何も起きていない」

と知ったとき、私たちの生き方は
どう変わるのでしょうか?

・コントロールしようという苦しみが静まる
・誰かを責めることに意味を感じなくなる
・自分を責める感覚が溶けていく
・すべてが「通り過ぎていく現れ」に
見えてくる

ただ静かで、在り続ける
いつも変わらずある気づいている意識
静寂の中に安らぎが見出されていきます

 

この理解が進むと
「すべてはただ起きている」と知りながら
同時に人としての感情や関わりを
大切にできるようになります

無関心になるのではなく
むしろもっと愛おしくなる

すべては夢のようでも
その夢の中にやさしさを注ぐことができる
真我として静まり
同時に人間として味わう

その両方が自然に成り立つ

 

結び

 

すべてはただ起きている
でも、何も起きていない

この言葉の意味は
頭で理解するものではなく

人生の中で少しずつ、沈黙の中で
腑に落ちてくるものです


すべてはただ起きている
しかし、真実には何も起きていない


その深い静けさに触れたとき
私たちはようやく

「いまここに、ただ在る」という
本当の自己を思い出すのかもしれません。

 

⭐️Pure Soul からのメッセージ⭐️

すべてはただ起きています。

けれど、その奥の奥で
何も起きていません。

あなたが悲しんでいるときも
喜んでいるときも、その中心には
変わらない静けさがあります。

その静けさこそが、あなたの本当の姿です。

そこには、始まりも終わりもなく
善悪も成功も失敗もありません。

ただ、やさしい光として在るだけ。

この気づきに触れたとき
世界のすべては夢のように柔らかくなり
誰かを責める理由も、自分を責める理由も
消えていきます。

そして気づくでしょう。

『私はすでに満ちていた』
『もともと愛そのものだった』と

 

最新作は、六根清浄大祓です
よかったら聴いてみてね♡

 

youtu.be

行為者はいない⭐︎すべてはただ起こっている」ラメッシ・バルセカールの言葉

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すべてはただ自然に起こっている。
それは「私」が選び、決めて
行っているのではない

行為者はいない。

何かをする「誰か」がいるという感覚は
思考による幻想にすぎません

この明確な気づきが訪れたとき
人生は重さを失い、深い安らぎが現れる。

 

「人生は起こるもの。
あなたが生きているのではなく
人生があなたを生きているのです」

── Ramesh Balsekar

 

「やるべきことをやる“誰か”などいない。
宇宙の動きの中で
出来事が自然に起きているだけだ」

── Ramesh Balsekar

 

この世界で起こるすべてのこと。
それは、あなたの努力や失敗、願いですらない。

完全なる原因と結果の流れのように
見えるけれど

その原因すらも、ただ自然に現れては
消えているだけ。

実のところ、何一つ説明する必要のない
「ただそうである」現れ。

だからこそ、安らぎがある。

そして、責めるべき誰もいないという
深い自由があります

私たちは日々、自分の選択によって
人生を歩んでいると思っています。

でも、もしその「選んでいる私」さえ
幻想だったとしたら?

ラメッシ・バルセカールは
『行為者はいない』と語ります。

この深い理解は、他者を赦し、自分自身を赦し
人生を信頼する静けさへと導いてくれます。

今日は『行為者がいない』という智慧
6つの視点から整理し
それぞれにラメッシの直接の言葉を
添えて紹介していきます。

 

1
選んでいるようで
選んでいない

行為はただ起こっている

 

私たちは日々、自分が意志を持って
『選択している』『行動している』と
信じています。

しかしラメッシ・バルセカールは
『自由意志は幻想であり、行為者はいない』
説きます。

つまり、人生におけるあらゆる行為
決断、出来事は、宇宙的な因果の流れの中で
自然に起こっているということです。

思考や感情、衝動、環境、条件づけ
それらの相互作用により
ただ「出来事」が起きているのです。

 

「思考が起こり、感情が起こり
行為が起こる。そこに“私”がしている
という事実はない」

「出来事は起こる。しかし、それを
“誰かがした”と思うのは思考の錯覚だ。」

— Ramesh Balsekar

 

2
誰かに傷つけられたと
思う時もそれは
『ただ起こった』出来事

 

たとえ誰かの行為に深く傷ついたとしても
ラメッシはそれも

『その人のコントロールを超えた
プログラムに
より、ただ起こった現象』

だと言います。

人は誰もが、生まれ持った性質や
育った環境、経験、カルマ的傾向などによって
特定の行動をとるよう“プログラム”されている

その人もまた、気づいていない領域で
そうするしかなかったのです。

 

「誰もが、自らのプログラムに従って
最善を尽くしている」

「被害者も加害者もいない。
あるのはただ、出来事だけ」

「加害者も被害者もいない。
ただ宇宙の法則が機能しているだけだ。」

「誰かがあなたを傷つけたとしても
それは、そうするようにプログラム
されていただけのことだ。」

— Ramesh Balsekar

 

3
「行為者がいない」
という理解は

他者を赦すことにつながる

 

この理解は、知識レベルの「許そう」
ではありません。

怒りや恨みを無理やり抑えるのではなく
自然に手放されていく赦しです。

なぜなら、誰もわざとあなたを
傷つけたのでは
ないと見えてくるからです。

そう思えないかもしれませんが
その行為は、ただ起きたのです。

すると

「許すべき誰か」も「許す私」も
存在しないとわかります。

そして

怒りも憎しみも、握り続ける理由を
失い、自然に溶けていきます。

 

「赦しは、理解から自然に起こる」

「赦す人も、赦される人もいない。
ただ、出来事が消えていく」

「行為者がいないという理解が深まると
赦すという行為すら必要なくなる。」

「それは知識ではなく、深い理解だ。
理解があるところに、怒りや憎しみは
根を張ることができない。」

— Ramesh Balsekar

 

4
「私」は誰なのか?
自己という感覚の崩壊

 

行為者がいないという真の理解は
「私が考えている」「私が感じている」
という感覚にも疑問を投げかけます。

思考も感情も、どこからともなく
自然に起こりやがて消えていきます。

「それらを観ている意識」が真の自分であり
その観照の意識には
「私」も「他者」も、「良い」「悪い」
もないと気づくでしょう

「あなたは、現れては消えていくものではなく
それを見ている“意識そのもの”である」

「“私”はただの名前にすぎない。
実際に存在するのは、出来事と
それを知覚する意識だけだ。」

— Ramesh Balsekar

 

5
信頼と明け渡し
宇宙の流れにゆだねる

 

この理解が深まると、人生は
「努力して操作するもの」から
「静かに眺めるもの」へと変わります。

すると

祈りや感謝も「私がする」ものではなく
ただ自然に湧き起こる表現として
現れてくるのです。

「私は何もしていない。
ただ、祈りが起こっている」

「明け渡しとは、感情を否定することではなく
それに巻き込まれず、そっと見守ること」

「する私がいないと知るとき
人生はコントロールするものから
眺めるものに変わる。」

「祈りや感謝が起きるとき、それもまた
自然な出来事だ。私がしているのではない。」

— Ramesh Balsekar

 

6
すべては光に変わる
出来事の恩寵

 

過去に苦しみをもたらした出来事も
『ただ起こった』と受け入れられた時

その出来事が今の静けさ・理解・優しさを
育てた恩寵として感じられるようになります。

その瞬間、被害者意識が消え
出来事が光に変わるのです。

それは、人生への深い信頼、「宇宙の完璧性」
への目覚めとも言えるでしょう。

 

「過去に苦しみとして現れたものも、それが
あったからこそ、今の理解に至っている。」

「すべては完全な計らい。
あなたの人生に起こる出来事に
間違いは一つもない。」

— Ramesh Balsekar

 

 

まとめ

 

理解の深まり
結果として現れること
行為者がいない
他者や自分への赦しが自然に起こる
出来事はただ起きていると理解すると
被害者意識が溶ける
すべてはプログラムされた流れ
他者への怒りが収まる
私はただの観照意識である
ただ純粋な意識
それに気づくと

感情に巻き込まれなくなる
人生は操作するものではない
明け渡しと静かな祈りが湧き
誰も悪くないと理解する
すべてが光になる

 

⭐️Pure soulからのメッセージ⭐️

この人生は

「誰かが生きている」のではなく
ただ生きるという現象が流れているだけ。

それを

生かされていると表現するのでしょう

苦しみさえも、あるがままに
流れてゆくならば
私たちはただ、純粋な意識として
今に在るだけでいい。

そして、愛は常にここに在る
今日もその静けさの中に
還っていきましょう♡

 

読んでくださって
ありがとう♡

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最新曲は、カタカムナ
讃美歌のようにつくってみました。
聴いてみてね♡

youtu.be 

 

神の御心のままに
全ては愛の中で起きている    

youtu.be

本当の自由とは?クリシュナムルティの言葉

f:id:puresoullove:20250717210634p:image

ご無沙汰しております。

今日は、「本当の自由とは何か?」という
問いについて

敬愛するクリシュナムルティの言葉とともに
私自身の理解や感覚を通して綴ってみたいと
思います。

多くの人が「もっと自由になりたい」と願い
何かを変えたり、得たり、抜け出そうとします。

でも、その自由はどこにあるのか?
本当にそれは、何かの先にあるもの
なのでしょうか?

 

静かにこの問いに向き合っていくと
それは外の出来事や状況ではなく

『今ここに在る』という意識の質そのものが
自由かどうかを決めているのだと感じます。

この文章が、あなたの内にある
『本質的な自由』と出会うきっかけや
静かな扉のようなものとなれたら
とても嬉しく思います。

 

本当の自由とは?


何をするかではなく、どんな“状態”で在るか

私たちが「自由」という言葉を口にするとき
そこには

何かから解放されたい!
もっと好きなことをしたい!

という願いが隠れていることがあります。

けれど本当の自由とは
何かを“すること”ではなく
どんな“意識の状態”で在るか
その深みにあるのだと思います

この問いに、クリシュナムルティ
生涯をかけて向き合っていました。

 

1. 自由とは「既知からの自由」

「自由とは、“既知”からの自由である」
ー J. Krishnamurti, Freedom from the Known

私たちの思考や行動の多くは
過去の記憶、経験、教育、信念…

つまり

「すでに知っていること=既知」に
基づいています。

その枠の中でいくら新しいことをしても
それは過去の延長に過ぎない。

クリシュナムルティ

「本当の自由は
条件づけられた思考からの解放だ」

と語ります。

それは、古いパターンから抜け出すこと
自己の中心(エゴ)を超えて「今」に
開かれること。

 

2. 本当の自由は、内側のもの

私たちはつい
外的な自由(お金・時間・行動の選択肢)」を
追い求めがちですが

クリシュナムルティが語る自由とは
まったく次元の異なるものです。

「本当の自由とは
心理的な囚われからの自由である。」

それは、政治的・社会的な自由ではありません
何かを“得る”ことでも、“変える”ことでもない。

他人からの解放ではなく、自己が築いた
エゴの構造そのものからの解放。

つまり

内側に築き上げられた『私という枠』
からの自由こそ、本質的な自由なのです。

 

3. 「何をするか」ではなく「どう在るか」

 「あなたが何をしているかではなく
あなたがそのときどう在るかが
すべてを決定するのです。」

ー J. Krishnamurti, The First and Last Freedom

 

私たちは何かを「正しく行う」ことに
意識が向きがちですが

クリシュナムルティ
行為の背景にある意識の質こそが
すべてを決めると言います。


それは

・恐れから行動していないか?

・承認を得るために動いていないか?

・自我が動機になっていないか?

という、内側の動機の純粋さを見ること。


外的な行為は大して重要ではない。
重要なのは、その背後にある意識の
動きなのです。

 

4. 自我(エゴ)からの自由

観察する者と、観察されるものが
分かれている限り、真の理解はない。

私たちは「私がこの世界を見ている」
「考えている」と感じていますが

その“私”とは
実は過去からの思考や記憶の集合体

「私」という中心がある限り
そこには分離があります。

でも、観察が純粋に行われ
「私が見ている」という感覚さえも

溶けたとき、そこに初めて
『非分離の理解と自由』が訪れる

と、クリシュナムルティは語ります

 

5. 真の自由は「ただ在ること」の中にある

「何をなすかではなく
どんな存在の状態で在るかが
本当の変容をもたらす。
変容はなることをやめたときに
自然に訪れる」
ー J. Krishnamurti, On Transformation

「もっとよくなりたい」「悟りたい」
「変わりたい」

そう思って努力することも
ある意味ではエゴの延長です

クリシュナムルティ
「変わろうとすることを手放したとき」に
初めて深い変容が訪れる

と言います。

それは、今に静かに在り、思考や願望から
自由になった純粋な意識の状態を意味します

 

まとめ 

 

「本当の自由とは『私』という中心が
消えることである。

見る者がなくなり『ただ在る』だけがあるとき
そこに自由がある。」

私たちは「何をするか」にとらわれすぎて
「どういう状態で在るか」を見落としがちです

けれど本質はいつも静かにそこにあります。

自由とは、どこかに行くことではなく
どこにも行かずに“今ここ”に純粋に在ること。

そうして、何にも囚われず、抵抗も期待もなく
ただ静かに「在る」

そのとき、内なる自由がふわっと
ひらかれるように思います。

 

⭐️Pure Soulからのメッセージ⭐️

見る者が消え、見るものも
見られるものも、見るという行為も
消えたとき

ただ「見る」が在る。
ただ「在る」が在る。

そこには誰もおらず
欲する者も、逃げる者もいない。

それが、本当の自由。

敬愛する クリシュナムルティの教えより
着想を得て

 

最後まで読んでくださり
ありがとうございます♡

宇宙を意識して、般若心経を
サンスクリット語で表現してみました。

聴いていただけると嬉しいです♡

 

youtu.be

 

youtu.be

 

どうでもいいという感覚

f:id:puresoullove:20250315153144j:image

『どうでもいい・なんでもいい』
この言葉を聞くと、多くの人は
『無関心』や『投げやり』といった
ネガティブなイメージを思い浮かべるかも
しれません。

『疲れ』や『諦め』あるいは『失望』から
『もうどうでもいいや』と感じた人は
多いでしょう

でも、在る視点から感じる
『どうでもいい・なんでもいい』は
ネガティブな感覚とは全く別のもので

それは、本質的な自由、深い安心感
そして『すべてが完全である』という理解から
自然に生まれる感覚です

このある視点からの
『どうでもいい・なんでもいい』の意味を
知っていくと、もっと自由に自分らしく
生きるられるようになります

今回は、エゴの視点からの『どうでもいい』と
在る視点からの『どうでもいい』の違い
そして、ラマナ・マハルシが説いた
『明け渡し(サレンダー)』との関係についても
深掘りしていきますね

エゴの視点からの
『どうでもいい』とは?

 

エゴの視点から感じる
『どうでもいい・なんでもいい』は
無力感やあきらめ、あるいは不足感から
生まれます。

たとえば

• 期待していたことが叶わなかったとき
→もうどうでもいいや

• 誰かに理解されなかったとき
→別にどうでもいいし

• うまくいかない状況に疲れたとき
→どうせ何をしても無駄だから、もういいや


この感覚の背後にあるのは

・どうせ自分は愛されない
・どうせ叶わない
・どうせ報われない

 

といった欠乏感や無価値感です。

エゴは『私は不足している』という前提に
基づいているため、望みが叶わなかったり
期待通りに物事が進まなかったりすると

『もうどうでもいい』と感じ、防御反応として
『無関心』や『諦め』を生み出します。

つまり、エゴからの『どうでもいい』は
『恐れ』や『欠乏感』に根ざしているのです。

 

エゴからの『どうでもいい』の特徴

• 心の奥に『無力感・恐れ・不足感』がある

• 「どうせダメだろう」「何をやっても無駄」
という感覚

• 期待が外れたときの防御反応

• 他者や状況への怒りや失望

 

在る視点からの
『どうでもいい』とは?


一方で『在る視点』からの
『どうでもいい・なんでもいい』は
まったく別次元の感覚です。

それは、すでにすべてが完全であるという
深く満たされた領域で感じる
自由な感覚です。

たとえば

・すべては『真我(在る)』から
自然に起きている

・何かを得る必要も、避ける必要もない

・どんな結果も在る自体には影響を与えない

・起こることは最善であり
起こらないことは必要ない

 

『在る』視点に立つと

・この結果がどうなっても、本当は大丈夫

・叶っても、叶わなくても、私はすでに完全

・この人に好かれても、嫌われても
私はそのままで価値がある

 

という、感覚になります。

この感覚は『無関心』や『冷たさ』ではなく
結果に意味を与える必要がないほど
『すでに満たされている」という安心感から
来ているのです。

在る視点からの『どうでもいい』の特徴 

 • 深い安心感と自由から生まれる

 • 「何が起きても大丈夫」という絶対的な信頼

 • 執着や恐れが消えている

 • 外側の結果に影響を受けない

 

ラマナ・マハルシの
『明け渡し』と『在る視点』

 

ラマナ・マハルシが説いた
『明け渡し(サレンダー)』は
『在る視点からのどうでもいい』に
到達するためのプロセスです。

 

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 サレンダー(明け渡し)とは

• 「自分がどうにかしなければならない」
という意識を手放す

• すべてを神(真我)に委ねる

• 結果に対する期待や恐れを手放す

 

明け渡し(サレンダー)によってエゴの
コントロールを手放すと『結果への執着』が
消え、自然に『在る視点』に戻っていきます。

つまり、サレンダー(明け渡し)の結果として
『どうでもいい・なんでもいい』という
自由な感覚が訪れるのです。

1. まず、エゴを手放し、コントロール
しようとする意識を明け渡す(=サレンダー)

2. すると、すべてが真我(在る)の中で
自然に起きていると気づく

3. 「結果」に対する執着や恐れがなくなり
どうでもいい・なんでもいいという自然な
自由と平安が訪れる

 

 《Pure soul からのメッセージ》

あなたが『在る』ことに気づけば
何も恐れる必要はありません。

あなたの本質は、すでに完全で
欠けているものは何もありません。

だから、結果に執着しなくて大丈夫。

『どうにかしなきゃ』と思わなくても
すべては自然に最高の形で起こります。

あなたが求めていることが
あなたにとって最善だとは限らない

『私は誰か?』と問いかけてみて

すべてを明け渡したとき、あなたは
『在る』だけで満たされていることに気づきます

 

《魔法の言葉》

すべてを明け渡します
私はすでに完全です。

何が起きても、私は『在る』だけで自由
そして愛されています

何をしなくても、何が起きなくても
私はそのままで完全。

 

コントロールを手放したとき
すべてが完璧に流れ出します♡

『どうでもいい・なんでもいい』という
感覚は、無関心やあきらめではなく

『在る(真我)』の完全性に気づいたときに
訪れる、究極の自由と安心

すべてを明け渡したとき、あなたは
『在る』だけで完全であることに
気づきます♡

 

youtu.be

真我(本当の自分)から、地球で生きる自分へ
の愛を唄にしてみました。

よかったら聞いてみてくださいね♡

 

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真の明け渡しとは?

 

f:id:puresoullove:20250307220541j:image

ラマナ・マハルシは
真我(アートマン)を探求する教えで
有名なインドの偉大な聖者であり

私のこのブログはすべて、ラマナの教えを源として
在る(真我)の愛の視点から書いています

今日のテーマである『真の明け渡し』
についてラマナの言葉を紹介します

 

真の明け渡しとは?



《ラマナの言葉》

完全な明け渡しのためには
自分自身のいかなる欲望も持たないこと
が要求される。

あなたはなんであれ神が与えくれるものに
満足しなければならず
それはつまりあなた自身の欲望を持たない
ということを意味する。

明け渡しは、あなたが
『神のみぞすべてなり』『神の御心のままに
という境地に至ってはじめて完全なものとなる。

神への完全な明け渡しとはすべての想念を放棄し
心を神に集中させることである。

もしそれができれば、他の想念は消え去る
もし心、言葉、身体の行為が神に融け合えば
人生のすべての重荷は神のものとなるのである。

 

ラマナ・マハルシの言葉にある
『明け渡し』という概念は、単に
『何もかもを手放して、すべてを神に任せる』
という表面的なものではありません。

それは

『個としての私(自我)』から
『すべての源である神(真我)』へと
完全に溶け込むことを意味しています。

自分という個の『私』を超えて
神や宇宙、即ち真我である本来の自己に
すべてを委ねること

これは、自己の本質に目覚め
自由になることを意味しています

明け渡しの本当の意味が深く理解されると
『私が何かをしている』というエゴの感覚が
自然に消えていきます

どういうことかというと
私たちはいつも

・私が選んでいる
・私が行動している
・私が望んでいる


と思っています

でも実際は

『あなた』ではなく
すべては神(真我)が起こしています

そこに気づくことが
完全な明け渡しです

 

在る(真我)とは何か

 

『在る』とは、ラマナがよく使った言葉で
私たちの本当の姿、真我(アートマン)を
指します。

愛のそもの

明け渡しは、この『在る』とは何かを
知ることが重要です

 

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『在る』それは、思考や感情
体の感覚を超えた純粋な意識そのもの

そして、この『在る(真我)』は
分離のない完全な存在で
すべてを包み込む愛そのもの

普段の私たちは

『私』というエゴ(自我)に縛られていて
『もっと欲しい』『こうなりたい』
『あれが嫌だ』とあらゆる欲望や恐れに
振り回されています

ラマナが言う『真の明け渡し』は
このエゴを手放し、真我の愛に還ること

それは、神や宇宙への信頼と一体感を通じて
私たちが本来の愛の状態に戻ることなんです

つまり、本来の自己に対する絶対的な信頼

 

完全な明け渡しとは
欲望を手放すこと

 

ラマナは言います。

『完全な明け渡しのためには自分自身の
いかなる欲望も持たないことが要求される』


ここで言う『欲望』とは、私たちが普段持つ
あらゆる願い、執着、期待のことです。

たとえば

• もっとお金が欲しい

• 理想のパートナーに出会いたい

• 健康になりたい

• 仕事で成功したい


こうした望みは、人間として生きる上で
自然ことですよね

しかし、ラマナは
『欲望がある限り、あなたはエゴの視点に
とどまる』と言います。

ただ

『自分自身のいかなる欲望も持たない』
ということは
『何も欲しがらないで我慢しなさい』
ということではないのです

欲望がどこから生まれるのかを深く
見つめること

つまり、欲望を持つことを問題とするのではなく
エゴがら生じる
『足りない・満たされない』
という
錯覚に気づくことが重要だと説いています

このような欲望は
『今ここに在る自分では不十分だ』
という思い込みから生まれるもので

・今の私はまだ満たされていない
・これが手に入らなければ、私は完全ではない
という前提なので、一時的に満足しても
永遠に満たされることはありません

けれども

本来の自己に目覚め
『在る(真我)』として生きる時
何かを得ることで幸せになるのではなく
今この瞬間、すでにすべてが満ちていると
気付きます

『今この瞬間にすべてがある』
その気づきが愛となって、満たされ
欲望は消えていきます
(欲望は消すものではなく、愛によって消える
というのがポイント)

欲望は、真の自己ではなく
自我(エゴ)が作り出した幻想にすぎない
というのがラマナの教えです

 

『 神のみぞすべてなり』
『神の御心のままに』の境地

 

『神のみぞすべてなり・神の御心のままに


という言葉は、深い信頼と一体感を
表しています。

ここで言う『神』は、特定の宗教の神ではなく
宇宙の摂理や生命そのもの
つまり『在る』すべての根源のこと

真我の愛の視点から見ると、私たちは
神と別々の存在ではなく、神の一部であり
神そのものです。

『神の御心のままに』とは
『小さな私(自我)』の計画や期待を手放し
大きな流れに身を委ねること。

そのとき、私たちは愛そのものとして
生き始めます。

たとえば、大好きな人がいて
その人と結ばれたいと強く思うほど
苦しくなるのに
ふと...

『その人が幸せならそれでいい』
自然に思える瞬間がありませんか?

その感覚が『明け渡し』の小さな例です

すべてを神に委ねるとき
重荷が軽くなるんです。

つまり、執着がない
それが本来のあなたです

愛そのもの

ラマナはさらにこう言います。

『あなたはなんであれ神が与えてくれるものに満足しなければならず
それはつまりあなた自身の欲望を
持たないということを意味する』

 

これを聞いて
『じゃあ何も望んではいけないの?』
『ただ流されるだけの人生になるの?』
と思うかもしれません。

だけど、そういうことではなくて

『私がこうしたい』というエゴの意志を超えて
もっと大きな流れにすべてを委ねること

欲望を超えた視点から自己の本質を見つめ
真の意味で自由になること

たとえば、あなたがある仕事をしたいと
思ったとします。
でも、どんなに頑張ってもうまくいかない

そこで『なぜうまくいかないの?』と
苦しむのではなく、こう考えるのです。

『これは、私が望むことではなく
もっと大きな流れの中で最善のことが
起きているのかもしれない』

もしその仕事が本当にあなたにとって必要なら
タイミングが整ったときに自然と流れていきます。
もし違う道が用意されているなら
別の形であなたに示されるでしょう。

理想のパートナーとのご縁もそうです。
『この人と一緒になりたい!』
って強く思っても、中々うまく行かない時は
もっと大きな流れに中で
最善の事が起きているのです

明け渡しとは、何もせずただ待つことではなく

『今ここに流れている愛に
すべてをゆだねること』

 

明け渡しの本当の意味
『在る』に集中すること

ラマナは言います

 『神への完全な明け渡しとはすべての想念を
 放棄し心を神に集中させることである』
 もしそれができれば、他の想念は消え去る


これはつまり

『すべてを手放して、ただ『在る』ことに
目覚めなさい』ということです。

『すべての想念を放棄し、心を神に集中させる』

これは、頭の中のおしゃべりを静め
真我の愛にチューニングを合わせるようなもの。
真我は「今ここ」にしかありません。

でも、普段の私たちの意識は、未来や過去
あらゆる思考にとらわれています。

でも、本当に大切なのは『今ここに在る』こと。

『ただ在る』ことに意識を向けると
そこには何の不足もないことがわかります。

何かを得るために頑張る必要もなく
(何かを得ようと頑張るのは『今持っていない』
という前提があるから)
ただ存在していることがすでに
愛そのものなのです。

『他の想念が消え去る』というのは
無理やり抑えるのではなく
愛に集中することで自然にそうなるところが
ポイントです

愛は光のようなもので、光が強くなれば
影(雑念)は自然に薄れていくんです。

さらに、ラマナは言います

 

もし心、言葉、身体の行為が
神に融け合えば、人生のすべての重荷は
神のものとなるのである。

 

これは、生き方そのものが愛の表現になる
ということです

心で愛を感じ、言葉で愛を伝え
行動で愛を実践する。

すると、私たちの人生は神(真我)の
流れと調和し、重荷が消えるんです。

たとえば

誰かを助けるとき
『よく思われたい』というエゴではなく

心から『その人が幸せになってほしい』
と思うとき、とてもあたたかい何かに
包まれる感覚がありませんか?

それが本来のあなた
真の愛です

真の愛が循環するとき
重荷は自然に神に預けられ
私たちは自由になります。

あなたが握りしめているものを手放し
愛で在ることで、重荷は自動的に
すべて神(真我)のものになる 

(真我はただ在る観照者なので何の影響も受けない
重荷を預けても、重荷を背負うこともありません)

私は誰か?
自我が消えれば欲望も自然に消えます

自我は真の自己(真我・純粋意識)に溶けていく

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『何に明け渡すのか』

こう問いかけるなら、ここ問い自体が
最終的には無意味になります。
なぜなら、真我以外に何も存在しないからです。

『明け渡す』とは
自我が真我に吸収されること。

真我はすでに唯一の実在であり
自我は幻想にすぎません。

したがって

『明け渡す対象』は真我以外にあり得ず
しかも真我は『外にある何か』ではなく
あなたそのものです。

真の明け渡しとは
明け渡す者が不在になること

     実践することが大事!

ラマナは『真の明け渡し』を日常生活の中で
どう生きるかを以下のように示唆しています

 

・執着を手放す
→結果や欲望に執着せず、全てが自然に
起こるままに任せる。

・抵抗しない
→人生の出来事(喜びも苦しみも)に抵抗せず
それらが真の自己に影響を与えないことを知る。

・静寂に留まる
→心が騒がしくなっても『それを見つめる者』
に意識を向け続ける。

 

まとめ 
明け渡しの本質

 

明け渡すとは

→自我が消えること。
「私」という思いが心の源(真我)に沈み込み
もはや分離した主体が残らない状態。


何に明け渡すのか

真我(本来の自己)。ただし、真我は
『明け渡す対象』として外側にあるものではなく
すでに存在する唯一の実在。
自我が消えることでそれが明らかになるだけ。
真我=あなた

明け渡しが完遂されると
『明け渡す者』も『明け渡されるもの』も消え
ただ真我だけが残る。
実際には『残る』という表現さえ不正確で
真我は常にそこにあったもの

真我は本来のあなただから

 

最後に...

ラマナはこうも述べています

『自我が真我に明け渡すのではない
自我が消えると、真我だけが輝く。
それが明け渡しだ』


自我の消滅

沈黙こそがラマナの最高の教えとなります

 

Pure soul からのメッセージ》

あなたは、もうすでに愛の中にいます。

あなたが何かをしなくても
何かを手に入れなくても
すでに、すべてが満ちている。

もしも

『私は手放せない」と思うなら
その気持ちをそのまま見つめてあげてくださいね

その気持ちすらも、在るがままに
愛されているのだから。

あなたは、何一つ背負わなくていい。

すべてを手放して
ただ在るがままに生きるとき

人生は思いがけない優しさとともに
流れるように動いていきます。

 

《魔法の言葉》

欲望を超えた真の平安が
既に私の内にある

私はいつも満ちている

私は在る

 

静かにこの言葉を心に響かせてみてくださね。

それだけで、あなたの中の何かがふっと
軽くなるのを感じるはず

今日も読んでくれてありがとう♡

 

youtu.be

真我の自分から、地球で生きる自分への愛を
唄にしてみたのでよかったら
聞いてみてください♡

 

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