『私とは何か?』
この問いの答えを探し続けると
いくつもの教えや哲学にたどり着きます。
タフティの『観察者』
エイブラハムの『ソースエネルギー』
ラマナ・マハルシの『真我』は
すべて『本当の私』について語っています。
でも、それぞれの視点やアプローチには
違いがあります。
それは『意識の深まり』によるもの。
どの教えが正しい、間違っているという話
ではなく、それぞれのステージに応じた
表現になっています。
ラマナの真我まで辿り着くまでに
いわゆるスピリチュアルというものを
いろんな視点から学ぶ方が多いのでは
ないかと思います。
この流れを知ることで『現実創造』から
『すべてはすでに在る』へと、意識の進化を
スムーズに理解できるようになります。
現実を創造する
・ 3次元の現実に目覚める
・自分のキャラクターに気づく
まず最初のステップが
タフティの観察者の意識です。
そしてエネルギーの使い方がとても
大事になります。
ここを活用していく流れが
意図の三つ編みに繋がってきます。
(エネルギーの話はまた別記事で書きます)
今回は、観察者の視点を書きますね)
タフティが言う観察者とは、
もう一人の自分のこと。
これは 『魂の視点』に近いものです。
私たちは普段、 体と思考の中に意識を置いて
生きています。
でも観察者とは、それを外側から見ている
存在のこと。
たとえば…
・思考がグルグル回っているのを
気づいている私
・感情が揺れ動いているのを
俯瞰して見ている私
『気づいている存在』=『観察者』
となります
ことがまず大事で、それが目覚めだと
言っていますよね
つまり『私は観察者だ』と気づくことで
ただの反応する存在ではなく、現実を創る側に
回ることができるのです。
ただし、 タフティの観察者は
まだ、個の意識(魂)の視点・視座 です。
この段階では 『気づく』『選ぶ』『現実を創る』というプロセスが必要になります。
《ソースエネルギー
すべての源(宇宙) 》
次にエイブラハムの
ソースエネルギーです
ソースエネルギー=宇宙エネルギー
なので、真我と同じなのですが
ラマナの真我『ただ在る視点』とは
異なります。
エイブラハムの言うソースエネルギーは
タフティの観察者よりもさらに高い視点から
捉えたもの
ソースは、 宇宙エネルギーそのもの。
神や源といえるもの です。
(ラマナの真我宇宙とは視点が違う)
エイブラハムの教えでは
・ 私たちはソースと常につながっている
・いい気分でいると、ソースと調和する
・波動を整えることで、望む現実を
引き寄せる
という考え方が基本になっています。
『本当の私』と『ソース』は、本来 同じもの。
でも、私たちは 意識を落とす ことで
ソースから離れたように感じます
この時の私は、自我(エゴ)の私
つまりソースと分離した状態になります
・気分がいいとき → ソースと調和している
・気分が悪いとき → ソースからずれている
だからこそ『いい気分でいる』ことが大切だと
説かれていますよね
ただし、 エイブラハムのソースには
『私』と『ソース』の分離感が
残っているのが特徴です。
・ 波動を調整すれば、最高の現実を
生きられる
この段階ではソースとつながることが
重要とされています。
《真我》すべてはすでにあ『ただ在る』
最終的な理解が ラマナ・マハルシの
『真我』 純粋意識です。
エイブラハムのソースエネルギーも
真我宇宙のエネルギーのことですが
ラマナの『真我』は、 エイブラハムの
ソースエネルギーの視点・視座よりも
さらに深いものとなります
『真我』とは、 宇宙エネルギーそのもの。
神や源と同じです。
(これはエイブラハムのソースエネルギーも同じ)
ラマナは言います。
私はそもそも真我であり
どこかとつながる必要すらない
・ 何かを創造する必要もない
・ すべてはすでに在り、最初から完全
『私はただ在る』
この理解がすべてです。
・ 気分がいいとき → それも私
・ 気分が悪いとき → それすらも私
どんな状態でも『私はただ在る』と
いうことに変わりはありません
だから
『ソースとつながる』
『波動を調整する』といった考え方すら
必要ない。
『〇〇しようという』概念すらない
領域です
なぜならすべてが『既に在るから』
• いい気分でいる必要もない
• 現実を変える必要もない
そもそも、私はそれでしかない
ラマナの『真我』は、分離しない
どうであっても私の状態に関係なく
ずっと繋がっていて
ずっと愛の中というのがラマナの真我の視点
エイブラハムのソースは
『私とソースがつながる』という前提がある。
でも、ラマナの真我は
『そもそも分離などない』ということに気づく
すべてをただ在るがままに観照している意識
観照者
になります。
タフティ → エイブラハム → ラマナ
この順番で理解が深まっていくのでは
ないでしょうか?
特に、ラマナの『ただ在る』視点を
肝に落とすのは深い慈悲の心が必要です
→ 私(魂)が観察し、意識を向けたものを
創造する
《エイブラハムのソース》
→ 私(魂)がソースとつながること
最高の現実を生きられる
《ラマナの真我 》
→そもそも、私はすべてであり
観照者である
タフティやエイブラハムの教えは
『現実創造』に焦点を当てています。
でも、ラマナの視点に至ると
『そもそも創造すら必要ない』と気づく
現実を創造するメソッドも、意図する必要もなく
最初からすべては完全だった。
『ただ在る』に意識
すべては愛の中でおきています
あなたに必要なものは(ご縁も)すべて
完全に用意されているということ
この理解が深まることで『ただ在る』ことの
意味が腑に落ちるのではないでしょうか?
あなたはすでに完全であり
すべてを内に持っています
現実を創ることも、何かを求めることも
どこかにつながることも
本当は必要ないのです
あなたは、最初から 『ただ在る』
という完全な存在。
観察者として目覚め、ソースと調和し
最後には 『何も変える必要がなかった』
と気づく旅。
それこそが
『すべてがあって、すべてがない世界を生きる』
💫 魔法の言葉 💫
私はすでに完全である
私はただ在る
すべては愛の中にある
あなたの魂は どこにも行く必要はなく
ただ本来の輝きを思い出すだけ。
そのままのあなたが、美しく
愛そのものだから。
この世界のゲームを楽しめばいい
読んでくれてありがとう♡