
すべてはただ起きている
でも、何も起きていない
ラメッシ・バルセカールの言葉には
一見すると矛盾していて
しかし
深く腑に落ちるパラドックスが
よく現れています。
その中でも私にとって
特に象徴的なのがこの言葉です
「すべてはただ起きている
しかし、何も起きていない。」
いったいこれは
どういう意味なのでしょうか?
目の前では、日々の出来事が
絶え間なく展開されています。
出会いがあり、別れがあり
喜びがあり、悲しみがあります
肉体は年を取り、社会では変化が起こり
環境も刻々と変わってゆきます。
「すべてはただ起きている」という言葉は
このような現象世界を否定するのではなく
むしろそこに『誰も起こしていない』という
事実を指し示しています。
すべては、因果の流れ
宇宙的な必然として起きている。
川の流れが、ただ流れているように。
風が、ただ吹いているように。
私たちは
「自分がこれをやった」
「あの人がこうした」
と考えます。
そしてその判断や記憶に執着し
罪悪感や怒り、誇りや後悔を抱き続けます。
「私という個人は、ただの受信機であり
すべては源から起きている」
この視点に立つと
私は何もしていない」
「誰も何もしていない」
という静けさが現れます。
ただ出来事が起きているように
見えるだけなのです。
ここに、より深い非二元の教えが現れます。
私たちが「何かが起きた」と認識するのは
思考や感覚の中の出来事です。
しかし真我の視点、つまり
「ただ在る」純粋意識の視点から観れば
現象はすべて、夢や映画のようなもの
起きているようで、実体はない。
雲が空に浮かんでは消えていくように
出来事もただ現れては消えていくだけ。
“在るもの”は、それを
ただ観ている沈黙の意識。
これは概念で理解するだけでは
届かないのですよね...
たとえば、鳥の声を聞いたとき
風の感触にふれたとき
そこに「それを聞いている私」が
変わらず在るなぁ...
という深い静けさに気づく瞬間があります
そして、さらに深く問いかけてみます
『この聞いている”私”とは、誰なのか?』
探求が深まると
その「聞いている私」ですら
現れては消えるものだと気づきます。
ただ気づきそのものが
変わらず在り続けているのです。
たとえば、夜に見た夢の中で
誰かと喧嘩をしたとしても
朝起きれば「ああ、夢だった」と知ります。
でもその夢の中では
確かに怒りを感じていたのです。
同じように、私たちの人生の中で起きる
「出来事」や「ドラマ」も
真我の目覚めの中では
ただの映像のように過ぎていくもの。
目覚めとは、「何も起きていない」
ことに気づくこと。
そして、全てはひとつだったと。
つまり
「私は常に、ただ在る」という
純粋意識として目覚めること。
「すべてはただ起きている
何も起きていない」
と知ったとき、私たちの生き方は
どう変わるのでしょうか?
・コントロールしようという苦しみが静まる
・誰かを責めることに意味を感じなくなる
・自分を責める感覚が溶けていく
・すべてが「通り過ぎていく現れ」に
見えてくる
ただ静かで、在り続ける
いつも変わらずある気づいている意識
静寂の中に安らぎが見出されていきます
この理解が進むと
「すべてはただ起きている」と知りながら
同時に人としての感情や関わりを
大切にできるようになります
無関心になるのではなく
むしろもっと愛おしくなる
すべては夢のようでも
その夢の中にやさしさを注ぐことができる
真我として静まり
同時に人間として味わう
その両方が自然に成り立つ
すべてはただ起きている
でも、何も起きていない
この言葉の意味は
頭で理解するものではなく
人生の中で少しずつ、沈黙の中で
腑に落ちてくるものです
すべてはただ起きている
しかし、真実には何も起きていない
その深い静けさに触れたとき
私たちはようやく
「いまここに、ただ在る」という
本当の自己を思い出すのかもしれません。
⭐️Pure Soul からのメッセージ⭐️
すべてはただ起きています。
けれど、その奥の奥で
何も起きていません。
あなたが悲しんでいるときも
喜んでいるときも、その中心には
変わらない静けさがあります。
その静けさこそが、あなたの本当の姿です。
そこには、始まりも終わりもなく
善悪も成功も失敗もありません。
ただ、やさしい光として在るだけ。
この気づきに触れたとき
世界のすべては夢のように柔らかくなり
誰かを責める理由も、自分を責める理由も
消えていきます。
そして気づくでしょう。
『私はすでに満ちていた』
『もともと愛そのものだった』と
最新作は、六根清浄大祓です
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